八幡太郎義家の四男だった義忠は、尋常であったなら、清和源氏の嫡流の座に立つことはあり得なかった。
しかし、運命のいたずらは、彼を源氏の惣領の座につけ、しかも、瞬時にして引きずりおろした。
八幡太郎義家の長男義宗は、左衛門少尉、兵庫允まで任官した後、夭折した。病気だったらしい。
次男義親は有名である。一種特別な正義感の持ち主だったようで、康和年間(1099年〜1104年)対馬守に任ぜられて西国に赴任すると、
正税官物を椋領して、上京するのを妨げ、ついに天仁元年(1108年)、平正盛に討ち取られた。
義家が死んだのは、義親が勅勘によって追討されている間のことだったので、義親が義家の跡を継ぐことはなかった。
そして、義家が死んだとき、三男義国も勅勘を蒙っている最中であった。
叔父義光との間に問題を生じ、常陸国で死闘を演じていたのである。
死の直前の義家は、次男義親・三男義国を、自分の手で追討しなければならないとことまで追いやられていたのである。
幸いにして、嘉承元年(1106年)七月に死んだので、父子相撃の悲劇は演じられなかった。
しかし、三男義国も、源家の惣領にはなりそこなったわけである。
こうして源家の惣領の座は、回りまわって、ついに四男義忠の手に転がり込んだのである。
義忠の官途は佐兵衛尉から始まっていた。以降累進して、帯刀長、左衛門大尉、河内守を経て、右兵衛権佐にまで昇り、官位は従五位下であった。
天下に名高い八幡太郎義家の跡を継ぎ、弱冠二十三歳で従五位下になっていたのだから、さぞ、その将来が期待されていたことだろう。
しかし、義忠が源家の惣領の座にあった期間は極めて短かった。三年後の天仁二年(1109年)二月十七日、暗殺されたのである。二十六歳であった。
下手人は、鹿島三郎某という、たまたま義忠に仕えて、その郎等ということになっていたが、本当の主は、義忠の叔父新羅三郎義光だった。
つまり、事件の真の黒幕は義光で、源家の惣領の座を狙っての犯行だったのである。
なお、この事件については、義光の項を参照されたい。
いずれにしても、義光は源家の惣領にはなれなかった。義忠の次兄義親の六男為義が義忠の養子ということでその跡を継ぎ、
源家の惣領になったからである。ちなみに、為義の子が義朝で、孫が頼朝である。
次男義高と四男義持の系統は、源家の嫡流たることを誇って源姓のままだった。
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