源義光後裔諸氏族系図

 

出   自       清和源氏源頼義
派生氏族        
  義業系   佐竹氏族山本氏族
  実光系   新田・田村
  義清系   武田氏族小笠原氏族南部氏流
  盛義系   平賀氏族
  親義系   岡田
  祐義系   刑部

 

 
【系譜】
清和源氏の惣領義忠を自分の郎等に暗殺させ、その郎等を弟僧快誉に生き埋めにさせ、義忠暗殺の嫌疑を兄義綱に被せて義綱一族を滅亡に追いやった極悪非道の男、 これが新羅三郎義光。八幡太郎義家の三弟である。 かつては、後三年の役(1083〜)に苦戦していた兄義家に与力するために、 京都の天皇たちが押しとどめるのを振り切って退官したという美談の持ち主と考えられていた人物である。 事件発覚の時には、義光は常陸国に下っていた。同国佐竹荘を領知して、佐竹氏の祖と仰がれることになる。 佐竹流は、義光の嫡孫佐竹冠者昌義を初代とする。その弟義定は近江国に土着した。山本・柏木・錦織・箕浦・大島・真島・早水などの諸氏がこれである。 義光の三男義清は甲斐国に赴き、同国市川荘を本領として、一族を甲斐国に繁延させた。 武田・逸見・大桑・一条・甘利・上条・下条・板垣・塩部・吉田・小松・万為・伊沢・石禾、岩崎・高畠・小笠原・加賀美・秋山・南部・丸毛・ 伴野・安田などの諸氏が、それである。義光の四男盛義は信濃国に本拠を置いて、平賀・佐々毛・大内・飯沢・小野などの諸家を興した。 つまり、義光流を大別すると、長男の系統が常陸国佐竹党と近江国山本党とに分流し、三男が甲斐武田党を組織し、四男が信濃平賀党を編成したということができる。 その他に、義光の次男実光の新田・田村などや五男親義の岡田、六男祐義の刑部などもあるが、これらはあまり有名ではない。
【四党に分流】
このように、義光流はきわめて多くの家系を分流させて、やがて全国で繁延したわけであるが、当初は大きく佐竹党、山本党、武田党、平賀党の 四種に分けて見ることができる。治承四年(1180年)からの源平合戦に際して四党がとった態度は、それぞれに個性に満ちていて面白い。
まず常陸佐竹党であるが、これは遠く京都の平家に呼応して、鎌倉の頼朝を挟撃しようと図った。 もちろん、頼朝に攻められて敗れ、京都に逃げ走るなどの醜態を演じた後、やがて頼朝に帰順して赦されている。 近江の山本党は果敢だった。京都に近かったこともあって、周辺でゲリラ的作戦を実施して平家を執拗に苦しめたが、やがて平家の大討伐を受けて敗れ、 鎌倉に下って御家人になった。その首将山本義経を、有名な源義経と誤認した歴史小説家がいるが、もちろん、別人である。
甲斐の武田党も、なかなかだった。当初は頼朝とは別個に挙兵して独自の行動をとっていたが、北条時政・義時父子が頼朝の使者として説得しに来ると、 すぐに頼朝の麾下に入った。富士川合戦の直前に頼朝軍に合流しようとした武田党の大軍を見て、平家が怯えて遁走したことは、よく知られている。 富士川合戦の勝利は、単に水鳥の数だけではなかったのである。
信濃の平賀党は、かなり早くから頼朝の麾下に参戦していたらしい。だから党首の平賀朝雅は、北条時政の後妻牧の方所生の娘と結婚して、 頼朝と合兄弟になっている。頼朝死後、将軍の地位を狙ったとして京都で殺されたのも、このためである。 義光流の諸氏には、共通して一つの癖があったかのように思われる。 通常、中世の武士団は、所領や住所の地名を苗字にするものであり、その故にこそ「苗字の地」という言葉ができている。 しかし、義光流の諸氏は、所領や住所がかわったとき、旧地名を苗字にしたまま新領土や新住所に持って行くのである。
【武田党、全国に拡がる】
最も有名なのが、武田である。これは、本来は常陸国にあった地名で、常陸国武田郷といった。 一度はここに住んだ義光の三男義清が、本拠を常陸国から甲斐国市河荘に移したとき、市河姓を名乗らずに武田を苗字にしたのである。 その後、子の一族が居を移すごとに、武田の名は各地に拡がった。このときにも、武田姓を改めなかったのである。 武田氏が武田の苗字を持って移住したところは、武蔵の大曾根村のほか、上総・下総・陸奥・越後・信濃・相模・伊豆・駿河・三河・尾張・美濃・若狭などがある。 このうち、上総真里谷城・庁南・鴻台・佐貫城などの武田氏は、戦国時代に安房里見氏としばしば戦ったことがあり、 室町時代の永享十二年(1440年)、将軍足利義教から若狭国を拝領した武田信栄は、若狭に居を移して大名家となり、 九代元明は越前の朝倉義景と通謀して織田信長と戦い、敗れて降伏して赦されたが、天正十年(1582年)、ついに豊臣秀吉に攻められて滅亡している。 なお、苗字の地から本拠を他へ移してもその苗字を持っていたものとしては、南部氏の例も有名である。 この地名は、元は甲斐国にあった。高麗郡南部郷である。これを領していた武田党加賀美氏流の南部光行が、頼朝の欧州征伐に従って功を樹て、 陸奥国内に九戸、閉伊、糠部、鹿角、津軽の五郡を拝領して、建久元年(1190年)十二月にこの地に居を移したが、 このとき、南部という苗字もそのまま持って行ったというのである。 しかし、これは若干伝説がかっている。彼が拝領したと伝えられる五郡のうち、少なくとも津軽、糠部の二郡は、北条義時が拝領したのであって、 南部光行ではないからである。
また、小笠原氏も、同様の例の一つに挙げられる。本来は甲斐国小笠原牧に由来して、領主だった武田党の加賀美氏が小笠原姓を称したものであるが、 その小笠原氏の一人、加賀美遠光が、文治二年(1186年)八月、信濃守に任ぜられて居を移してから以降、 戦国時代に至るまで信濃国に盤踞していながら、小笠原姓を名乗っていたのである。 なお、甲斐武田党として天下にその名が聞こえているが、その初期については、判然としないことが多い。 先述したように、武田を最初に名乗ったのは、義光の三男義清である。その武田冠者という名は、常陸国の地名に由来していた。 しかし、武田という名は、その後しばらくは使われない。義清の子は逸見であり、その嫡男の系統はずっと逸見である。 義清の次男信義が武田太郎と称したが、その子は一条・板垣などを称し、ようやく末子の信光が武田を称する。 その信光も最初から武田ではなかった。石禾荘を領して石禾(伊沢)を称していたが、生涯の末期になって、ようやく武田を名乗ったのである。 なお、信光については、謎が多い。鎌倉初期の武田党の惣領は、武田氏であるよりは、安田氏であったと目される。 ところが、この安田氏父子二代が、幕府の官女に付文をしたなどと言いがかりをつけられて、幕府で殺される。 と、その直後に、この信光が武田党の惣領になるのである。この信光は、北条氏と一種の結び付きがあったようである。 時政が伊豆に願成就院を建立すると、その背後に、信光の名を取った信光寺がるというのも、その一例である。
【明治まで続いた佐竹家】
義光を祖とする四代末流のうち、常陸佐竹氏は戦国時代も生き抜き、江戸時代も大名として明治まで続いた。 甲斐武田氏が戦国時代の信玄の時代に覇を振るったが、その子勝頼の代に織田信長に攻め滅ぼされたことは、誰でも知っている。 しかし、近江山本流では、錦織氏が南北朝内乱の頃まで続いたが、南朝に与同したため、やがて滅んでいる。 信濃平賀党は鎌倉初期に滅亡している。
 
義光流略系図
(新羅) 佐竹
義光 -- 義業 -- 昌義 -- 忠義
| | |- 義弘
| | |- 隆義 -- 秀義 -- 重義 -- 長義 -- 義胤 -- 行義
| | | |- 義茂
| | | L 義清
| | |- 義宗
| | L 親義
  |   | 山本
| |- 義定 -- 義経 -- 義明
| | | |- 義弘
| | | |- 義兼
| | | |- 義高
| | | |- 義成
| | | L 頼高
| | |- 光祐
| | |- 義春
| | |- 胤義
| | L 宣義
| |- 義仲
| L 源尊
  | 石井
  |- 実光
| 武田 (逸見) (武田)
  |- 義清 -- 清光 -- 光長
| |- 信義 -- 信光 -- 信政 -- 信時 -- 時綱 -- 信宗
  | | 加賀美 小笠原
  | |- 遠光 -- 長清 -- 長経 -- 長忠 -- 長政 -- 長氏
  | | | | 阿波小笠原(三好祖)
| | | L 長房 -- 長種
| | | 南部
| | L 光行 -- 実光 -- 時実 -- 政光 == 宗経
| |- 義定
| |- 清隆
| |- 長義
| | 光義
| |- 巌尊
| |- 義行
| |- 義成
| |- 信清
| L 義氏
  | 平賀
  |- 盛義 -- 有義
  | |- 安義
  |   | 大内
  |   L 義信 -- 惟義
  | 岡田
  |- 親義
  L 祐義

 

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