鎌倉から戦国にかけて関東に覇を唱えた名族
▼関東管領家
上杉氏の始祖は藤原重房。『尊卑分脈』によると、藤原鎌足の十九代であり、高藤から十三代とある。
重房は建長三年(1251)に没した式乾門院に仕え、蔵人を勤めた。
式乾門院は、承久の乱ののち、院政をとった後高倉院の第一女であり、多くの皇室領を伝領していた。
おそらくは、そのうちの丹波上杉荘(京都府綾部市上杉町)を重房が管理しており、上杉を称したこともあったろう。
『尊卑分脈』では重房の子頼重が上椙三郎と号したとある。式乾門院領は室町院領に移るが後嵯峨上皇の管理下であることは変わりない。
そして上杉の重房も室町女院に奉仕することになったのであろう。
ところが建長四年三月、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王は、幕府の願い出によって宮将軍として東下する。
このときに、上皇は重房を抜擢して従行させたらしい。続類従本の『上杉系図』には、頼重を「関東下向」とし、「文武達人」とある。
ただ宗尊親王の行列を始め、以後の鎌倉での親王の行動のうちに、上杉重房親子の姓名が、たとえば『吾妻鏡』などに見えない。
鎌倉の執権政治は、幼い宮将軍を迎えて不平不満をかわし、将軍が成人すると更迭する政策をとる。
宗尊親王は文永三年(1266)六月、将軍職をやめさせられ、その王子で三歳の惟康王が代位する。
しかし、正応二年(1289)やめさせられ、久明親王が将軍となり鎌倉に下る。
この動きにつれて消された人物も少なくない。この流れを凝視していた「文武達人」上杉頼重は、黒子に徹する一方で、
ゆるぎない大豪族との握手を模索し続けたであろう。
足利氏は、上野国において新田氏とならぶ大豪族である。宝治(1248)のころ、足利氏と結城氏との係争について、
執権時頼の裁決はまことに歯切れが悪い。足利氏を敗訴とするにはあまりに強力過ぎた(『吾妻鏡』同年後十二月二十八日条)。
上杉氏はこの足利氏と結び、家の安全を図るとともに将来を託した。
上杉氏が勃興したのは、重房の女が足利頼氏に嫁入りしてのちである。
頼氏の子家時の誕生は弘安六年(1283)である。そして上杉頼重の女清子が家時の子貞氏に嫁入るに及び、
上杉氏の家運の隆昌は決定的となった。清子は足利尊氏・直義兄弟の生母である。
元弘三年(1333)閏二月、形勢を重視した幕府は、足利尊氏に出征させる。
尊氏は三月に鎌倉出発の時から心に期しており、近江鏡駅で細川和氏と上杉重能が後醍醐天皇の綸旨をえて披露したと『梅松論』に見える。
黒衣役に徹していた上杉氏は、晴れの舞台に登場する。頼重の後、憲房をへて憲顕と重能は、足利尊氏を補佐して功を立て、
尊氏の次子基氏が鎌倉府を開くと、高重茂の次に憲顕が執事に就任し、のち関東管領に迎えられる。
上杉氏は分派が多く、山内・扇谷・犬懸・詫間・庁鼻(深谷)とは、それぞれ居館の地名を取って称号とした。
深谷を除く四家は、交互に鎌倉府の執事や管領として関東の政権を掌握した。
犬懸・詫間の二家は早く衰え、扇谷・山内の二家は長く栄え、両上杉と称せられた。
文明年間、扇谷定正は、太田持資(道灌)の補佐により勢力を拡大したが、山内顕定に謀られ道灌を誘致してのち、両家の抗争に発展。
後北条氏が勃興すると、両上杉はこれに当たるが、天文七年(1538)、扇谷朝定は武蔵河越合戦で戦死し、扇谷家は滅んだ。
山内憲政もついに北條氏康に圧せられ、長尾景虎に頼る。
なお越後守護に上杉房定子孫があり、越後上杉氏として関東上杉氏の後ろ楯となった。
▼詫間上杉氏
上杉重能は勧修寺別当宮津入道道免の子で、母は上杉清子の妹の加賀局。上杉憲房の養子となり、鎌倉の詫間谷に住んだので、この家を詫間上杉という。
はじめ元弘の変に足利尊氏に従って京都に進軍した。のち重能は足利直義に属して引付一番頭人となるが、
貞和五年(1349)、高師直・同師泰兄弟の専横を憎み、これを排斥することを直義に勧め、成功したが、師直によって越前で殺された。
そして憲顕の子能憲が重能の養子となり、観応二年(1351)二月、摂津武庫川で師直を殺し、養父の仇を討った。
能憲のあとを重能の弟重兼、その子能俊(引付一番頭人)とうけ、憲重・憲俊・憲能と子孫が受け継ぐが、家運は振るわない。
▼深谷(庁鼻)上杉氏
山内上杉憲顕の子憲英は、陸奥守になり、庁鼻(深谷市国清寺)に住し、庁鼻上杉氏の祖となった。
臨済宗南禅寺派の常興山国清寺を中心とした城跡庁鼻和城である。
県指定旧跡上杉憲英の墓もある。憲英のあとを憲光・憲長と受ける。
憲光は上杉禅秀の乱(応永二十三年[1416]十月から翌年正月まで)で、山内上杉憲基に味方した。
このとき庁鼻和城から深谷城に移る。憲長のあと弟憲信の子房憲が継ぐ。彼は武蔵人見(深谷市人見)の昌福寺を建立した。
そのあと憲清・憲賢・憲盛・氏憲とつづく。憲賢から氏憲までの三代は後北条氏に従い、深谷城を守った。
上杉謙信の攻撃を受けた歴史をもつ。氏憲は寛永十四年(1637)に死亡したという。
▼越後上杉氏
足利尊氏・直義兄弟の従兄弟にあたる山内上杉憲顕は、貞治元年(1362)越後守護に復職し、そのあとを末子憲栄、次はその兄憲方の子重房が継承した。
上杉禅秀の乱後に、山内上杉氏は、房方の子憲実に憲基のあとを受け継がせたために、越後上杉氏と山内上杉氏との関係はますます緊密化した。
房方が応永二十八年(1421)に死亡すると、朝方・房朝の父子が継ぐ。この頃には、守護代長尾氏の勢力が台頭してきて、
国内で守護方と守護代方とに分かれ内紛が続いた。また上条上杉氏の清方(房方の子)は、永享の乱ののち、実兄の憲実に招かれて、結城合戦の大将となり、
戦後に鎌倉御所持氏遺児を京都に送るが、その帰途、境川で自殺した。清方の子房定と房定の弟房実の子定実は、
それぞれ越後上杉氏の房朝とその孫の房能のあとを継承した。
最後の越後守護定実は、永正四年(1507)、守護代長尾為景に擁立されて上杉房能を自殺させ、翌年十一月に越後守護となる。
同年七月に上杉顕定は房能の仇を討つため、子憲房とともに越後に入り、定実・為景らを敗走させる。
しかし、翌七年四月、顕定はまた越後に入り、為景らと戦うが、その六月に決戦の後敗死した。
永正十年十月、定実は為景を除くため、越後春日山城(南北朝期から守護上杉氏の城郭、上越市内)に挙兵する。
しかし、為景は定実を府中の自邸に移し幽閉する。
天文五年(1536)十二月、為景が死亡すると、すぐに家督を継いだ子晴景は定実を擁立する。
彼は天文七年十二月に出羽の稙宗の子時宗丸を迎養しようとしたため、ついに天文九年六月には稙宗・晴宗の内紛にまで発展して失敗に帰した。
天文十六年、晴景はようやく国内を平定するが、やがて弟景虎と争うに及び、定実は両者を和解させ、
天文十七年十二月、景虎を春日山城主とする。天文十九年二月、定実は死亡し、越後上杉氏は断絶する。
ただし守護代長尾景虎は、永禄四年(1561)、関東管領上杉憲政から家を譲られて上杉を称する。
▼犬懸上杉氏
憲房の子憲藤が鎌倉の犬懸谷に住んだので、この家を犬懸上杉と呼ぶ。
憲藤は暦応元年(1338)三月、信濃で戦死。子朝宗が継ぐ。彼はのちの鎌倉御所満兼を幼少のころから育て、応永二年(1395)三月、関東管領となり、
満兼を助けたが、応永十六年、満兼の死により出家し陰退。子の氏憲が跡を継ぎ、応永十八年二月、関東管領となったが、
ことあるごとに山内上杉氏は氏憲に反対する。ついに鎌倉御所持氏にそむき、上杉禅秀(氏憲)の乱を起こし、
応永二十四年正月、子の憲方・憲春らとともに自害し、犬懸上杉氏は滅亡。
▼扇谷上杉氏
頼重の子重顕が鎌倉の扇谷に屋敷を構えたので、その家を扇谷上杉氏という。
重顕の子の朝定は、足利尊氏の執事となり、その養子顕定は康暦二年(1380)に若くして死亡。
その養子氏定は、上杉禅秀の乱に相模藤沢道場(清浄光寺)で、応永二十三年自殺した。
その跡を持定が継ぐ。早世したのでその弟持朝が継いだ。しかし持朝は持定の子ではないかという(『国史大辞典』)。
持朝の子顕房、康正元年(1455)武蔵分倍河原の戦いで負傷し、夜瀬で戦死。
扇谷上杉氏の家宰太田資清らは、顕房の子政真を擁立した。
しかし、応仁元年(1467)に持朝、文明五年(1473)に政真が死亡したため、資清の子資長(道灌)らは、持朝の子で政真の叔父定正を江戸城主とする。
しかし、定正は山内上杉憲定に謀られて道灌を誘殺したので、対立して自家の衰亡を早めた。
明応三年(1494)顕定と戦い、定正の戦死後、一族の七沢朝昌の子朝良が継ぎ、顕定に対抗した。
永正元年九月、顕定・顕房と武蔵分倍河原に戦って敗れ、河越城に逃れるが、翌年、顕定らに河越城を囲まれ、和を求めて江戸城に移り、
隠居し家を養子朝興に譲る。
永正十五年、朝良の死後は朝昌の孫朝興が家督を継ぐ。朝興は北條氏のため江戸城を追放されて、扇谷上杉氏は滅びた。
▼山内上杉氏
憲房の子憲顕に始まる。憲顕は高重茂(1337〜1346)に続き鎌倉府の執事を勤めた。
観応年間(1350〜51)の足利尊氏・直義兄弟の争いには直義に党し、各地に転戦したが、貞治二年、その才幹を惜しむ鎌倉御所基氏に越後から迎えられて
関東管領となり、のち、この家が上杉の宗家となって関東管領職を世襲する。
憲顕の子憲方が康暦元年に鎌倉山内のかつての鎌倉執権の屋敷跡に居館を定めたので、山内上杉氏という。
憲顕のあとを子の能憲(関東管領)と能憲の弟憲春が関東管領に就任する。
御所氏満は康暦元年閏四月、将軍義満に叛意を抱く。憲春は自殺してこれを諌止した。
その弟憲方が関東管領に任命され、憲春の弟憲方(関東管領)、その子憲孝(関東管領)、憲藤の次子朝宗(関東管領)と憲方の子憲定の子憲基の順で家を継いだ。
憲基は犬懸上杉の氏憲(禅秀)と争い、大乱を巻き起こした。憲基のあとは、越後上杉房定の子の憲実が継いだ。
憲実は、鎌倉御所持氏の乱のため伊豆に隠退。子憲忠・房顕があとを継ぐ。
このころから関東は大乱となり、憲忠は享徳三年(1454)十二月、御所成氏に誘殺され、房顕も文正元年(1466)、武蔵五十子の陣中で病死。
越後上杉房定の子顕定が継承。扇谷上杉の定正と抗争して永正七年越後で敗死した。
こののち衰亡の一途をたどり、顕実(足利政氏弟)・憲房(上杉周晟弟)・憲広(足利高基の子)・憲政父子が受け継ぐ。
憲政は後北条氏の圧迫に抗しかね、天文二十一年、上野平井城を後にして越後の守護代長尾景虎に頼る。
そして、永禄四年、憲政は景虎に上杉の家督と関東管領職を譲り、天正七年死亡。
長尾改め上杉景虎は・政虎・輝虎(剃髪して謙信)と名を改め、天正六年没。
養子景勝は同じ養子の景虎を敗死させて家を継ぎ、米沢藩の祖となる。
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