細川頼之の弟、頼有を祖とする細川家の庶流家。頼有は南北朝中期に備後・阿波等の守護に任ぜられたが、
その子頼長は明徳三年(1392年)、備後半国の守護に補任され、応永の乱後、土佐半国守護、ついで和泉半国守護となっている。
備後は南北の地域割りだが、土佐・和泉の場合は、地域分割でなく、行政を完全に共同で行うという、守護制度上極めて特異な半国守護であったことが知られている。
以後、頼長流はもう一方の細川基之に対して上守護家と呼ばれ、世襲して戦国末に至った。
応仁の乱後、両畠山の抗争の余波を受けて領国は安定せず、紀伊の畠山尚順に蹂躙され、三年後には細川元有が岸和田城で尚順に敗死する状況であった。
天文十八年(1549年)、元常のとき、和泉は三好氏に奪われ、幕府近習に成り下がった。
甥の三淵藤孝が元常の養子となり名跡を相続、義輝に仕えた。
永禄八年(1565年)の将軍弑逆のときは難を逃れ、足利義昭の奈良脱出を図り、同十一年、明智光秀の仲介で信長をして義昭を擁立せしめることに成功。
山城克竜城主に封ぜられる。
幕府滅亡でまったく旧主義昭と離れ、信長の武将となり、三好三人衆打倒や松永久秀滅亡に功を挙げた。
その賞で丹後田辺城に封ぜられ、本能寺の変後は子忠興に家を譲った。
忠興は光秀と絶って一時は夫人ガラシアを追放。小牧・長久手で信雄軍撃破に功有り、侍従に叙せられ宮津十一万石に封ぜられる。
九州征伐・小田原城攻めにも従軍し、文禄の役には朝鮮に転戦、帰国後、伏見城造営、関が原では東軍に属し、豊前小倉四十万国、
子忠利は肥後に移り、維新に至る。
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