当初の畠山氏は桓武平氏秩父氏族に属し、秩父重弘の子重能が武蔵畠山庄司であったことから畠山氏を名乗るようになった。
その子重忠は鎌倉幕府創業に功があったが、北条氏のために滅ぼされた。
しかし、足利義純が重忠の妻と結婚し重忠の遺跡を継いで畠山氏を称した。
足利尊氏の幕府創設にあたって、畠山一族は足利一門として活躍し、斯波・細川両氏とともに管領家となった。
畠山氏が能登守護職を得たのは、管領細川頼之が失脚した康暦元年(1379年)の康暦の政変が契機で、
頼之派の能登守護吉見氏頼が改替されたあと、畠山基国が任じられた。
基国はそれまで越前守護にあったが、この時、斯波義将の越中守護職と交換し、のち河内・紀伊の守護職も兼帯した。
応永十三年(1406年)基国の没後、次男満慶が継いだが、後兄満家に家督を譲った。
しかし、応永十五年、満慶は能登守護職だけ譲り受けて別家を立てた。
これが能登畠山氏で、代々の官途修理大夫から匠作家と呼ばれた。
義統は応仁の乱後、能登に在国するようになり、七尾城を本拠に領国経営を進展させた。
しかし、守護代遊佐氏を始め、温井・長など重臣の台頭が著しく、家臣間、あるいは畠山一族同士間の争いも引き起こされて、次第に衰退した。
義綱は家臣によってその地位を追われ、流浪を重ねた末上杉氏に身を寄せ、その子義隆にいたっては、天正二年(1574年)家臣に毒殺され、
あとを継いだ義春も、上杉家の包囲網の中、孤立した七尾城で天正五年閏七月病死し、ここに能登畠山氏は滅亡した。
七尾城が落ちたのはその三ヶ月後である。
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