(清和源氏)源頼範流系図

 

出   自       清和源氏源満仲
氏   祖       源頼範
派生姓氏       戸島・勾当

 

 
【系譜】
多田満仲の七男頼範は、長兄頼光の准養子になってその系統に飲み込まれしまい、大きく翔ぶようなことはなかった。 頼範は、左衛門尉・右近衛将監・検非違使などを歴任して、従五位下にまで昇った。 しかし、大きな事績もなく、官位も大したことはなかった。 代々、この系統は摂津国豊島郡に住んだが、この豊島郡自体が長兄頼光の系統の本領だったので、これを憚ったらしく、豊島姓を称することはなかった。 豊島を転化させて、戸島と名乗ったのは、このような事情かららしい。

頼範の長男頼綱の系統が、このように嫡系の頼光系を憚って小さくなって生きており、たかだか、筑前国司になったものがわずか一人しか出ていなかったのに対し、 次男頼家の系統はやや史上に頭角を現している。 頼家自身が越前、加賀、筑前などの国司を歴任したほかに、正四位下の蔵人にまで昇ったのである。当然、昇殿も許されていた。 頼家の蔵人所での地位は、事務を専当する勾当というものであった。 これを誇りにしたらしく、この系統は勾当をもって名乗りにしたので、いつのまにか、勾当が苗字に転化してしまっている。 しかし、勾当というのは、あくまでも事務官である。武人のなすべき職務ではない。 しかも、実際に筆を執る下級の職である。このような地位を誇りにしていたということ自体、あまり自慢になることではない。

この系統からは、賀陽院侍長、上西門院蔵人なども輩出している。 賀陽院というのは、朝廷と鎌倉幕府との間に起こった承久三年(1221年)の乱において、後鳥羽上皇が倒幕の本陣を置いたところである。 ここで侍長として勤務していたということは、承久の乱において朝廷方与同だったということになるが、 朝廷方敗戦後、どうなったかは不明である。
 
源頼範後裔諸氏族略系図
頼範 -- 頼綱 -- 範弘 -- 為綱
L 頼家 -- 家成
|- 満綱 -- 盛仲 -- 基仲
|- 満家 -- 清俊 -- 仲綱
|- 家通
L 家基 -- 遠仲 -- 仲頼

 

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