(清和源氏)源頼清流系図

 

出   自       清和源氏源頼信
氏   祖       源頼清
派生氏族       村上氏族
派生姓氏       村上、入山、屋代、上条、下条、飯田、出浦・平屋・小野沢・山田
今里・戸隠・小野・岡田・畠・白田・寄合・上野・林・吉田・大蔵(以上信濃国)
吾妻(上野国)
近江(国司由来)

 

 
【系譜】
源頼信の次男頼清は、肥後国および陸奥国の国司を歴任しただけで、従四位下にまで昇った。 子孫は信濃国に繁延して、信濃源氏となった。 とくに村上御厨を中心とした地域に蟠踞した村上党は、史上でも有名である。 寛治八年(1094年)、頼清系に事件が起こった。頼清の嫡孫惟清が、武蔵守藤原行実に対して刃傷に及んだのである。 結果は悲惨であった。まず、父仲宗が讃岐国に配流された。惟清本人も伊豆国大島に流された。これで、頼清系は嫡系が断絶した。 当然、惟清の次弟顕清が、嫡流を継ぐべきであった。しかし、是も縁座によって信濃国に配流されていた。 仲宗の長男惟清に子がなかったこともあって、次男顕清の子為国が嫡流を嗣ぐことになった。 しかし、惟清・顕清兄弟が罪を受けて配流に処せられていたことを憚って、三弟仲清の孫ということになって、頼清系の嫡流を嗣ぐことになった。 仲宗、惟清、顕清の主立ったものが寛治八年に諸国へ配流されると、この為国が頼清系の嫡系を嗣ぎ、村上判官代と称した。 中世の信濃国に武名をとどろかせた村上党の祖である。 この為国は、少納言入道藤原信西の娘を妻にして、信国、泰遠、安信等の子を儲けた。 信西入道は、保元元年(1156年)の乱後から平治元年(1159年)の乱のときまで、わずかな期間ではあったが、京都政権における政務の実権を握った人物である。 このようなこともあって、村上党は源平合戦にも大した活躍をしなかった。

鎌倉幕府が倒れて建武政権が成立すると、諸国の武士が功を競って京都に雲集した。 このうちの一人に、この村上信貞もあったらしい。 やがて南北朝内乱が始まると、信貞はすぐに足利尊氏から信濃国の守護職に任ぜられたらしい。 しかし、村上氏による信濃守護職滞在の時間は短かった。 天文十五年(1546年)信濃守を称していた村上義清は新興の武田信玄と戦って敗れ、越後国に逃れて上杉謙信を頼ることになった。 川中島合戦の直接の原因である。その後の二代は織田信長に仕え、曾孫吉勝のときに徳川家康に仕えた。 以降、その子孫は江戸幕府の旗本であった。
 
源頼清後裔諸氏族略系図
頼清 -- 仲宗 -- 惟清
| | 村上
| |- 顕清 -- 為国 (⇒村上氏族)
| L 仲清
|- 兼宗
|- 家宗
|- 秀宗
L 基宗

 

経基王後裔諸氏族     源満仲後裔諸氏族